ごしゃいなりじんじゃ
神奈川県鎌倉市岩瀬1399
建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一太郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を願って創建、江戸期には鶴岡職掌、坂井越後が神職を兼ねていたと「相模風土記」にある。岩瀬氏は..
建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一太郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を願って創建、江戸期には鶴岡職掌、坂井越後が神職を兼ねていたと「相模風土記」にある。岩瀬氏は常陸国那珂郡大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬)の岩瀬城城主であったが、「吾妻鏡」によると治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝による佐竹氏攻めの際、常陸国府中手前大矢橋(現、花園川にかかる大谷橋】で捕えられ、常陸国府中(現、石岡市)の頼朝本陣にて見参した際、頼朝に諫言し、その武勇を認められ家人となり当地に居を構えたと伝わっている。 その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威の発揚で飢饉を乗り越え民心を引き締め、神社では粥を振る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。 明治六年に村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年神社本庁振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築等を行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年社務所の改築を行った。
倉稲魂神、保食神、大己貴神、太田神、大宮能売命
建久年間(1190年~1198年)
8月最終土・日曜日
根岸線本郷台駅より歩いて約12分。