かつやまはちまんじんじゃ
愛媛県松山市味酒町3-1-1
延久5年(1073)伊予守として赴任した源頼義の命により、河野親経が定めた八社八幡の一社(八番札所)と推論される。 元は松山城(勝山と呼ばれていた)の山頂に鎮座していたが加藤嘉明が松山城を築くに当..
延久5年(1073)伊予守として赴任した源頼義の命により、河野親経が定めた八社八幡の一社(八番札所)と推論される。 元は松山城(勝山と呼ばれていた)の山頂に鎮座していたが加藤嘉明が松山城を築くに当たり、普請奉行の足立重信と助役の山下八兵衛が勝山の調査に赴くと、山頂に社があり、足立が薪を拾っている老人に社の名を尋ねたところ、言葉が不明瞭で「勝山八幡」と答えたのが「勝たずの八幡」と聞こえた。 足立は「勝たずの八幡とは不吉なので取り壊すがよい」と言ったが、山下が「敵がこの城に攻め寄せても勝たずと考えれば吉相である。当山に鎮座する神をみだりに取り壊しては神罰の恐れがある」と言ったので、北の麓に遷すことになった。 後に蒲生忠知によって今市町(勝山の東麓、現在の喜与町)の三宝寺境内に遷座、さらに明治8年(1875)阿沼美神社境内に遷された。