瓊々杵尊が保食大神を祀って創建したとも言われるが、境内の案内板には「白鳳の壬申(約1300年前)に福智山上に鎮祭されてより高格古社の神社として神威著しく、遠賀、鞍手、嘉穂群二万戸から五穀豊穣の神としてまた耳の神様として崇敬を集めた」とある。
「白鳳の壬申」は672年、壬申の乱で知られ、天武天皇が即位する年に当たる。当社は、『日本三代実録』の貞観15年(873年)に神位の等級を進められた「鳥野神」に充てられる国史見在社。他の論社としては、北九州市八幡西区の春日神社がある。
中世の詳細については不詳。慶長年間(1596年-1615年)、黒田長政が筑前の国主となり、幕府鬼門の守護神として再興したという。「幕府」「鬼門」は黒田氏の居城である福岡城から見て、ということか。再興とあるので、戦国期までに荒廃していたのだろう。
福地権現と称していた福智山山上の社は天正年間(1573年-1593年)に筑前(当社)と豊前(福智中宮神社)に分社していたという。
慶安年間(1648年-1652年)に現在地に本殿が築かれ、明治33年(1900年)に県社に昇格した。大正13年(1924年)、社殿を改築している。
現在地は鷹取山(標高633メートル)から福智山(標高900.6メートル)への登山口にもなっており、現在も、英彦山修験道行場の一つだった福智山の山頂には、当社の元宮に当たる上宮(福岡県直方市頓野字内ケ磯福智山嶺)が鎮座している。
福地山は国見岳とも呼ばれ、社伝では日本武尊が山頂から情勢を眺めたとの伝承が残る。山頂付近には巨岩が今もある。
『古事記』によれば、日本武尊は九州や関東に遠征しているが、関東には関連伝承が多く残っているのに対して、九州には多くない。福地山の伝承は稀有。
現在の上宮は石祠が残るばかりだが、それも宝暦3年(1753年)の再建と伝わり、古い。近代社格では無格社。明治33年4月11日県社に昇格。