にうじんじゃ
和歌山県日高郡日高川町大字江川1956番地
以下、和歌山県神社庁該当ページより引用抜粋。
当神社は旧丹生村の村社であり、八幡大神を主祭神とし丹生津姫命外を併祀し、当地は八幡大神と丹生津姫命とは特にゆかりは深く、明治41年より2年に亘る神..
当神社は旧丹生村の村社であり、八幡大神を主祭神とし丹生津姫命外を併祀し、当地は八幡大神と丹生津姫命とは特にゆかりは深く、明治41年より2年に亘る神社合祀以前は当神社を江川八幡宮と呼び、室町中期和佐手取城主玉置氏が和佐城山に築城後、直ちに守護神として川中長子八幡宮より(日高川町小釜本鎮座)八幡大神を勧請。 最初城内に祀っていたのを江川の此の地に遷し、放生会祭として祭礼は執り行なわれて来た。 「應永・天文年間(1394―1554)当社の放生会祭の席順の人名を記せる文書、村民江川氏に藏む」と『紀伊続風土記』にみえ、その頃には数少ない江川村天正検地帳と共に原本は有ったが、その後原本は散逸され、その写しのみ東京の国立図書館に現存されているが、原本がみつからないのが残念である。 又当地方には真妻と呼ぶ地名が多くあり、その地には合祀以前真妻大明神が祀られており、丹生津姫命が鳶に乗り真妻峯に天下ったと言う伝説から、当地方では丹生津姫命を真妻大明神と呼び、農耕の神、魔除けの神、又丹朱の色になくてはならない水銀を司る神として崇められ、当地内和佐に通稱(ごんじ穴)と呼ばれる水銀発掘の古跡があり、又伊都郡の丹生津比売神社の有名な古文書『天野告門』の中に、「日高の江川の丹生に忌杖刺し給ひ」と言う一文がみえており、江川と言う地名が始めてみえるのは此の古文書が始めてであり、水銀文化の盛んな頃、丹生津姫命を祖神と仰ぐ丹生氏が当地に来たり、水銀発掘、土地開拓、農耕機織を教え、土地発展の礎を築いた事が窺われ、その御恵を稱えて真妻峯に真妻大明神と稱へなしてお祀りし、その後各地区ごとに思い思いの地におまつりし、合祀以前は各地区に丹生津姫命を祀る小祠が鎮座していたが、その後江川八幡宮に他の小祠と共に合祀し、その後社号を(丹生神社)と改め現在に至っている。 (例祭) 笑い祭神事は、和佐地区より選ばれた笑い男(12名)が1升の福枡に野山の幸を串に刺し、神前に供へ、祭事を執り行ない、笑い男達が執る先導の合図で、どっと笑い、それを繰り返しながら渡御を奉仕すると言う奇祭である。 又江川組の鬼の出迎へと奴踊り、和佐組の踊り獅子、山野組の雀踊り、松瀬組の竹馬駈け等、の盛り沢山の神賑行事が奉納され、県無形文化財に指定されている。