小篠塚城は印旛沼への最大流入河川である鹿島川に面した半島状の台地先端に築かれました。小篠塚城の築城年代などの詳細は不明ですが、16世紀中頃から末頃と考えられる遺構が良好に残っています。現在は正慧寺(しょうけいじ)とその塔頭安養院が城内に建っています。平安時代から鎌倉時代の初めには、小篠塚城の周辺は印東氏の領地でした。その後は、千葉氏の領地になり、15世紀前半には平河氏と宍倉氏が知行していたことがわかっています。享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺。これにより享徳の乱が起きました。転戦中に本拠地鎌倉を占拠された成氏は鎌倉に入ることができず古河城に入り、以後、古河公方と呼ばれるようになりました。享徳の乱の終結後も動乱が続き、文亀2年(1502年)から永正元年(1504年)までの間、成氏の跡を継いで2代古河公方となった政氏とその子である高基が小篠塚城に動座しました。動座した理由は定かではありませんが、その頃、政氏と千葉孝胤(のりたね)は関係が悪化していたともいわれていて、小篠塚城は当時の状況を考える鍵になる重要な城といえます。