大内氏は「中世戦国の雄」として名を馳せた。二十四代・弘世以来約二百年、文武兼備の歴代当主がつくりあげたのが、西の京“山口”であった。
大内氏の祖は、百済国・聖明王の第三王子・琳聖太子で、推古天皇の十九年(611)に周防国佐波郡多々良の浜(今の防府市)に着岸し、聖徳太子より大内県を賜り、多々良を氏としたといわれる。平安時代に入り、十六代盛房のころより大内を氏とした。代々、周防権介として重きをなしてきた。
二十四代・弘世(1352~80)は、周防・長門の二国の守護となる。大内氏中興の祖といわれ、政庁を山口に移し、「西の京」として町づくりを始めた。三十一代・義隆(1528~51)の時代、栄華はその極に達した。しかし、戦国下克上の世、天文二十年(1551)、武段派の重心・陶晴賢の謀反により滅亡した。
興隆寺は、寺伝によれば、推古天皇二十一年(613)に琳聖太子が創建したと伝えられる。天長四年(827)ごろ、大内茂村が、現下松市の鷲頭山から氷上山興隆寺に妙見社を勧請して氏神とし、大内氏の総氏神に定めたという。
この妙見社は祭神を北辰妙見大菩薩と称し、興隆寺とともに、歴代当主の信仰があつく、妙見社大祭の二月会に際しても、当時の行事や条令などが興隆寺文書に記載されている。