おおみやはちまんぐう
広島県庄原市高野町南488
由緒 大宮八幡宮の起こりは、崇神天皇の御世に波久岐の国造であった豊玉根命が、高麗神のご神託により、南の奥地多気山に「高神」を祀り雨を祈ったのが起源とされ、高麗明神と称えられました。 古に、当社奥山..
由緒 大宮八幡宮の起こりは、崇神天皇の御世に波久岐の国造であった豊玉根命が、高麗神のご神託により、南の奥地多気山に「高神」を祀り雨を祈ったのが起源とされ、高麗明神と称えられました。 古に、当社奥山の雄滝にて祈雨祈念の折、滝壺の中より「倒面鏡(さかつらのかがみ)」が 引き上げられました。以来「倒面鏡」は、八幡宮のご神体として崇められ、雄滝・雌滝からハ 幡宮の大鬼谷川は、大宮八幡宮の神域として尊ばれております。 天元2年(979年)9月 (旧暦)に現在地の福円原に社殿を造営し「高麗神」を祀り、この時新たにこの地域の荘園領家平氏により勧請された山城国の石清水八幡宮を合せ祀り福円原 八幡宮と称し、荘園の鎮守社として厚く崇敬されました。 正和5年(1316年) 山内首藤通資が、地毘(中世の地名。旧庄原市北西部・高野町・比和町・ 口和町一帯に地頭職として下向し蔀山に城を築き、福円原八幡宮に鶴ヶ岡八幡宮を合祀し鶴ヶ岡八幡宮と号し荘内総鎮守社としました。通資は、同時に阿弥陀堂を建立し薬師像他を安置しております。その後累代の蔀山城主が社領寄進や社殿の造営をしばしば行いました。 天正15年(1591年) 山内氏が蔀山城を去り、江戸時代になると鶴ヶ岡八幡宮は、高野山十一ヶ村の総鎮守社となり多賀山大宮と称えられ、近郷近在の尊崇深く祭礼の折には、職仕立ての数百余の馬が宮入り致しました。明治時代に入ると大宮八幡宮と称され高野山村の村社に列せられました。
高雷神、誉田別命、息長帯比売命、比女太神、帯中日子命
旧村社
10月19日
なし