福岡県朝倉市の美奈宜神社(林田)の境内社として鎮座する白峯神社は、悪縁を断つ、縁切りの御神徳の篤いお宮です。
第75代天皇である崇徳天皇は、父の鳥羽上皇から我が子でないと疑われ、1156年の保元の乱にて讃岐に流され、林田の雲井御所で約3年過ごされました。二度と京都の地を踏めることは出来ぬまま、8年後に崩御しました。
その後京都で多くの災いが起こり、上皇の祟りと言われ日本史上最大の怨霊となったと伝えられています。
崇徳天皇は、配流先の讃岐では大乗経の写本を作り、戦死者の供養と反省の証として京都の寺に収めてほしいと朝廷に願い出ました。しかし、後白河院はこれを拒否しました。
これに激しく怒った崇徳院は「この経を魔道に回向する」などと血で書き記し、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿となり、のちに生きながらにして天狗になったと言われています。
時代は下って、幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じます。慶応2年11月16日(1866年12月12日)に白峯宮の建設が始まりますが、まもなく崩御します。その遺志を継いだ子の明治天皇は、慶応3年1月9日(1867年2月23日)践祚。慶応4年8月18日(1868年10月3日)に白峯宮の創建を宣命し、勅使を白峯陵に送り、上皇の命日の8月26日(10月11日)に宣旨を読みあげさせ、その翌日に即位しました。
その勅使により同年9月6日(10月21日)上皇の御霊が讃岐国から京都に到着し、頓証寺殿[旧:法華堂]の本尊であった崇徳上皇僧形座像図を当宮に移し、翌日に明治天皇が参拝しました。尚、その翌日の9月8日(10月23日)明治に改元されています。初代宮司には讃岐国白鳥神社の神職家の猪熊夏樹が就きました。
明治6年(1873)藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路国に配流され、その地で崩御した淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路島から迎えて合祀し、官幣中社としました。
崇徳天皇が3年間過ごされた同じ地名の林田、つまりここ美奈宜神社境内に白峯神社が建立されたと伝えられています。明治45年再建記念に奉納された鳥居が現在も残っています。
現在は崇徳天皇と同じ様に苦しみ悩む人々がなくなるよう、悪縁を切るご利益を求め、多くのご参拝がございます。また、美奈宜神社は縁結びで有名な出雲の大国主大神をお祀りしていますので、本殿もお参りください。