創建はつまびらかではないが、口伝えによると、神代の昔、天御中主神が清武町円目岳に降臨したことにより当地に祀ったと伝える。後陽成天皇の慶長十一年(1606)十月七日、すなわち領主藤原朝臣祐慶(第二台飫肥藩主)の時に、大宮司川越源八郎は円目岳が険阻にして参拝に不便であったため、領主の命により現在地に移したという。
なお今泉神社については次のような社伝がある。
清武村の今泉を流れて清武川の上使橋付近に落ちる支流を水無川という。
小春日和のある日、今泉の里の婆さんが水無川で塩漬けにする大根を山と積んで洗っていた。その時川下から土手をつたって、白衣の老人が杖を便りに歩いて来た。
老人は足を止めて、「私にその大根を一本恵んで下され。」といった。人声に驚いて後を振り向いた婆さんは「これは漬物にするので、人にやる為に作ったのではない。」と無愛想に答えた。老人は「その小さいのでもよい。」といって婆さんの足もとに転がっているのを指した。そして「私は三日三晩何も食わずにいる。」と付け足した。しかし婆さんは「自業自得だ、私の知ったことではない。」と言いながらごしごしと大根を洗っていた。「この水が無くなっても宜しいか。」と老人が怒り気味でいったが婆さんはとり合わなかった。
老人は木のこんもりと茂っている処へ辿りつき、何か口の中で唱えながら、川の中に自分の枝に突きさした。川底に穴が空いて水はどんどん地下にしみこんでしまった。「これが報いだ。」老人はこういって川上へ歩いていった。
清武村の西南に一際目立って高い円目山がある。その山の南側に妙見様が祀ってあった。清武村、特にその今泉の人達は深く信仰していて、夏の日照りの雨乞いには必ずここにお祈りした。しかしその人々の中に塩の漬物を持っていくものがあったら、その人は必ず腹痛を起こして一人ではとても下山が出来ない程になる。そこでいつしか「あの川の水を無くしたのは妙見様だろう。」と言い伝えるようになった。そして「あんな辺鄙な山奥に祀ったのでは、もったいない。」といい、今泉の人達が主となって地区から五、六町の西南方に神社を建てて祀ることになった。これが今の今泉神社で、付近の農民の崇拝の的となっている。