当社は創立年月日不明であるが、棟札等は、安永五壬申年(1776)七月五日社殿再興とあるのが最も古い。寛政十三年(1801)酉年二月吉日社殿再興、天保十一年庚子年(1840)十月吉日社殿再興、安政六己未年(1859)正月吉日社殿再興とある。一説には鎌倉時代伊豆の伊東氏が当飫肥に転封され清武城を築城してより、この地に住民を定住させる事となりこの宮を建立されたともいう。
安井息軒(宮崎郡清武町出身、寛政十年正月六日生、明治九年九月没、伊東藩の儒者昌平黌教授)に「姥神洞記」がある。神社所在地の九平の地名は、高平上高平柳平小平内平櫛平収平山之神平児屋之平の九つの平を総括して九平と藩主が命名させたと伝えられている。此の地は「南方より来る者此に至りて始めて宮崎児湯郡の地を望む」峠でもあった。安井の文にも「我聞姥ヶ嶽神者天狗也」とあるので道案内としての猿田彦命を祀ったと考えられる。戦前はご祭神「武甕槌神」を戦捷の神として、また、「彦五瀬神」は、弾避の神として信仰され出兵兵士の武運長久の祈願が盛んであった。「軻遇突智命」はこの神社を愛宕さまともいった由で火の神としての信仰もあったようである。
昭和三十年一月火災のため本殿、拝殿炎上、翌年六月本殿再興、また昭和五十一年一月拝殿再興する。昭和五十八年四月二十二日神社本庁より姥ヶ嶽神社と承認を受ける。
御神徳 家内安全、夫婦和合、子授け等