下椹沢地区の西方に鎮座している。
沿革によれば、祭神は應人天皇(誉田別之尊)。創建は不明だが、言い伝えと郷土史研究家峯田太右衛門氏の研究によると、文治五年(1189年)椹沢楯を築城した葛西壱岐守は三男正法寺殿を楯主とし、鬼門の守護神として八幡神社を建立したという。享保12年(1727年)氏子の手により再建された。祭典日は、戦前は旧三月十五日、旧七月十五日であったが、現在は四月二十九日、八月十五日に変更されている。
境内には阿無弥陀仏南無釈迦牟尼仏碑、南無阿弥陀仏百万遍供養塔、大阿闍梨法堯湛堅固金剛、湯殿山、奉待十八夜塔、切石供養塔、八聖山、境内社の地蔵堂など多くの石塔などが建立されている。
かって地区民は神主の亀岡家を法印様と呼んでいたが、法印とは神主化した山伏が多いという。
下椹沢の二十六夜塔などから、教覚院は峰入りの修行を相当数達成し、大越家の称号を得ていたことが分かる。そして湯殿山参拝の先達として、また石碑の建立の際、導師を務めた。明治初期の修験道禁止令や廃仏毀釈令により、神主となったと思われる。
椹沢楯について、八幡神社から南方の西原団地に向かう王川に架かる橋の名称は楯の内橋といい、現在は西原団地になっているが、小字名は楯の内であった。西原団地開発以前は畑や牧草地で、周囲に濠跡が残っていたという。峯田太右衛門氏の調査によると、根際村(山辺町根際)普廣寺の寺伝などから、葛西壱岐守の二男巨海理元禅師が普廣寺を開山し、三男正法寺殿が椹沢楯主となり、下椹沢集会所駐車場付近にあった八幡山正法寺を開山したとのこと。