みなみよしみはぐろじんじゃ
埼玉県比企郡吉見町南吉見57
当社は天文年間(1532-55年)に難波田弾正入道善吟によって松山城三の丸に祀られたことに始まると伝える。難波田弾正は扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。天文6年(1..
当社は天文年間(1532-55年)に難波田弾正入道善吟によって松山城三の丸に祀られたことに始まると伝える。難波田弾正は扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。天文6年(1537年)に河越城主であった朝定が北条氏康に攻められ、松山城に逃れた時、難波田氏は朝定を守って戦った。しかし、河越城の奪回を目指した天文15年(1546年)の河越夜戦の戦闘で敗れ、難波田氏は主家の扇谷上杉氏と共に滅亡した。 その後も当社は慶長6年(1601年)の廃城に至るまで城内にあったが、その後村民により本丸の東方の現在地に移されたという。 宝永6年(1709年)の棟札には「奉造営羽黒山大権現鎮座□五箇村氏子繁昌諸願成就所・別当明楽寺秀英」「武州横見郡下吉見領之内流川村・根小谷村・湯沢村・土丸村・新宿村」とあり、当時は五か村の総鎮守であったことがわかる。なお、これに見える別当明楽寺は真言宗の寺院で、当社参道入口の左手に堂を構えていた。 明治4年に村社となり、同39年に本殿・拝殿を改築し、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀した。
天文年間(1532-55年)に難波田弾正入道善吟によって松山城三の丸に祀られたことに始まる。
倉稲魂命、菅原道真公
村社
天文年間(1532-55年)
なし