いつくしまじんじゃ
鹿児島県出水市上大川内鮎川3851
古文書或いは縁起等創建に関するもの伝わらず。 由緒として二説伝わる。一説には、働き者の男が酒香の漂う湧き出す水を探し求めたところ大変美酒であった。男の信仰していた厳島大神の御神託とのことで奉祀した..
古文書或いは縁起等創建に関するもの伝わらず。 由緒として二説伝わる。一説には、働き者の男が酒香の漂う湧き出す水を探し求めたところ大変美酒であった。男の信仰していた厳島大神の御神託とのことで奉祀したと、また平家の落人がこの地に落ち延びて氏神厳島神社を勧請したとの二説である。 享保十三年弁才天宮宝殿再興の棟札に二十二代藩主継豊公の、天明三年鳥居奉造の棟札に二十五代藩主重豪公それぞれの武運長久・御家門繁栄・氏中の悉病消除・風雨順時・五穀成就・万民豊楽を祈念、また嘉永六年唐櫃の表書きに弁才天社と記載。これら僅かに残り伝える旧社名、二枚の棟札、明治期の由緒記から類推するに、元の社名は弁才天社。御神体は木造の弁才天像であった。明治維新の神仏分離令にて御神体は市杵島比売命を奉祀(後に田心比売命・瀬織津比売命を合祀)、社名は厳島神社と改称。大川内村の村社。 当社は広大な出水平野を潤す米ノ津川の水源なる地であり、大口・上場から流れくる合流地点であり、境内は滾々と豊かな湧き水がでるところである。河の神・水の神の弁才天を奉祀し治水・農産業の要―守護神とされたように思われる。明治の初めまで厳修された郷を挙げての勤番御名代の槍挾箱の行列が出る十月七日の大祭。五月の御田植祭の御田植踊、七月一日の蝗除祈願の太鼓踊が行なわれ、往時は「ブデデンサァ」詣として大変賑わっていたとのことである。 平成八年拝殿改築。 明治維新の仏教色排除の命にて、当時役所に提出しなければならない由緒の作成に、二説の大変な労苦が忍ばれる。 (鹿児島県神社庁HPより)
市杵嶋比賣尊(イチキシマヒメノミコト) 田心比賣尊(タゴリヒメノミコト) 瀬織津比賣尊(セオリツヒメノミコト)
旧村社
通称:ブデデンサァ
少し有り