かわまたじんじゃ
大阪府東大阪市 川俣本町10-38
川俣神社は、奈良時代~平安時代に官社となった神社の一覧表に記載され、その頃から祈念祭には、鍬・靫(ゆぎ・矢を容れて背に負う道具)が供えられたと書かれています。 川俣の地名は古くから知られており、『..
川俣神社は、奈良時代~平安時代に官社となった神社の一覧表に記載され、その頃から祈念祭には、鍬・靫(ゆぎ・矢を容れて背に負う道具)が供えられたと書かれています。 川俣の地名は古くから知られており、『日本書紀』には、仁徳天皇が詠んだといわれている歌があり、その中に「……川俣江の菱殻の……」は、水辺に生い茂る菱を歌っており、この川俣は、当地であるといわれています。 奈良時代、僧行基(ぎょうぎ)が、川俣の一女性を救う話や、東大寺の大仏造営時、河俣連人麻呂(かわまたむらじひとまろ)という豪族が、銭一千貫を寄進したと書かれています。また奈良時代の他の書物にも、川俣・河俣・川派名が見受けられ、河俣氏は、古代からかなり勢力を持つ豪族であり、氏神として川俣神社をまつったといわれています。 神社地には「川中」という字名がついています。古代から地形の低いこの辺りは、何本にも川筋がわかれたり、入江や中洲が散在する状態であったと思われますが、こういう地形は、水運など交通の便もよく、古代文化の受け入れる地であったと思われます。
大己貴命、少彦名命、保食神
式内社(小)河内国若江郡「川俣神社」に比定される
なし