うかべじんじゃ
和歌山県海南市小野田917
神社の古記録は、戦乱の世兵火に焼失して確たる典拠がなく、主神を究める資料は現存しない。 しかし、宝治2(1248)年、神職小野田家所蔵の文書に、景行天皇の御代、山城国愛宕神社を勧請すとあり、古来、..
神社の古記録は、戦乱の世兵火に焼失して確たる典拠がなく、主神を究める資料は現存しない。 しかし、宝治2(1248)年、神職小野田家所蔵の文書に、景行天皇の御代、山城国愛宕神社を勧請すとあり、古来、祭神3柱の中央祀神たる「宇賀部大神」を軻遇突智命とする説に符号することになるが、詳細については不明である。 『紀伊続風土記』(天保10〔1839〕年)によると当社は、 「一村の氏神にて社殿壮麗なり・・・宮作及び境内の形状尋常村落の産土神とも見えす必古官知の神にして後世其神名を失いしなるへし」とあり、古くは由緒ある知名の神社であったが、乱世を経て衰微し、その神名さえ忘れ去られるに至ったのである。 荒八王子神社は、もと現在地東方100mに、若宮八幡神社(誉田別命)は、もと南方400mの高倉山の中腹に鎮座していたが、宝暦4(1754)年4月6日、本殿新築の際、この地に合祀されたのである。 それ故、昔は、宇賀部両大明神と称え、高倉山を上の宮、現地を下の宮とも呼ばれていたようである。 一説に、神武天皇ご東征当時、紀北を支配していた豪族、名草戸畔の首級を祀るともいう。 確証は得られないが、鎮座地城山(頂上に小野田城〈天正13(1585)年落城〉が築かれていた)と対峙する高倉山(若宮八幡・山王各社の旧跡)、その中ほど(神社南方150mの地点)から昭和29年に発見された旧石器時代(1万2千年前)のサヌカイト製有舌尖頭器(石材は大和地方採出という)等に秘められた謎がありそうな気がする。 元来、頭の守護神、頭病平癒の神として尊崇されてきたが、現在では「おこべさん」の愛称で、学業成就や入試合格等で祈願する若人の数が増え、四季を通じて祈願者の後は絶えない。(和歌山県神社庁HPより)