いせべかきもとじんじゃ
和歌山県海南市日方600
当社御鎮座の由来は『倭姫命世記』に人皇第十代崇神天皇の御代、皇女豊鍬入姫命が天照大神の御霊代たる八咫鏡を奉じ、大神の御鎮座ましますべき所を求めて諸国を巡行遊ばされた際、崇神天皇の54(西紀前44)年..
当社御鎮座の由来は『倭姫命世記』に人皇第十代崇神天皇の御代、皇女豊鍬入姫命が天照大神の御霊代たる八咫鏡を奉じ、大神の御鎮座ましますべき所を求めて諸国を巡行遊ばされた際、崇神天皇の54(西紀前44)年から4年間吉備の名方の濱の宮に鎮座遊ばされたとあり、徳川時代の学者、伴信反や『紀伊続風土記』によると、この吉備の名方の濱の宮は現在の海南市名高の井引の森跡であり、JR海南駅の東に大神宮遺跡という石碑が建っている所であるという。 しかるに其処はその頃海浜で、高潮や津波の被害の恐れがあったので、いつの頃からか、近くで安全な日方の東山、即ち現在の社地に御遷座なされ、社殿は壮麗を極めたと伝えられているが、天正13(1585)年豊臣秀吉の紀州征伐の際消失し、その後慶長9年に再興され、爾来当町の産土神、氏神として氏子の安泰と地方の繁栄のため御神徳を発揚されている。 尚当神社は日方浦の海運業が盛んであった徳川時代に海路安全と商売繁昌を祈願して奉納された千石船の模型並びに廻船絵馬8面及び基部に多数の船名が刻まれた燈篭2対は全国的にも希少なもので、県文化財に指定されている。 (社叢) 本殿裏山は檜木、杉の大木が天をつき、鎮守の森を形成し、境内には御神木「なぎの大木」及び県木に指定されている「うばめ樫」の古木が繁茂し神厳無比である。 (例祭) 神脹行事の神輿渡御は神社の大神輿2基に続き、各町内からくり出す子供神輿が続き、町内をねり歩くありさまは壮観である。 (夏祭) 奉納される「大作り物」は境内築山を背景に、歌舞伎や神話、昔話の一場面を人形、大道具、小道具で工夫をこらし作りあげ、夏祭りの呼びものの一つである。 (初ゑびす) 海草地方の商業繁栄の中心となった当町では、大正年間より講社が組まれ、初ゑびすには吉兆を授け、日方のゑべすさんとして有名である。(和歌山県神社庁HP)