えいふくじ
三重県名張市下比奈知1978
寺伝によると、神亀年間(724~29)徳道上人の開基にかかり、七堂伽藍あり塔頭数ヵ寺を有する一山寺であったと伝える。しかし、天正伊賀の乱で悉く焼失してしまった。兵災後、下比奈知の氏次(姓は不明)とい..
寺伝によると、神亀年間(724~29)徳道上人の開基にかかり、七堂伽藍あり塔頭数ヵ寺を有する一山寺であったと伝える。しかし、天正伊賀の乱で悉く焼失してしまった。兵災後、下比奈知の氏次(姓は不明)という土豪が一宇を再建し、長谷寺の本尊十一面観音と脇侍の天照皇大神、春日大神を模刻してこれを安置、開眼供養して再興を図ったと伝えられる。 正徳二年(1712)に至り往僧誘教により中興されているが、江戸末期(1800~)には寺運は衰退していたが、明治元年(1868)往僧になった鈴木賢瑞が再興に尽力し建て直して今日に及んでいる。 所蔵の仏像は本尊十一面観音はじめ、薬師如来、阿弥陀如来、聖徳太子、聖観音、不動明王、五大明王、弘法大師、興教大師の各像が安置されており、境内には、鐘楼門、護摩堂、弘法大師、歓喜天像を祀る祖師堂、参篭所が建ち並んでいる。鐘楼門は明治二十五年(1892)の建立で、鐘楼は太平洋戦争中供出されたが、昭和五十年に再興して奉釣され、大晦日には除夜の鐘が打たれる。 本尊の十一面観音像は「三国地誌」によると本地埀迹(姿を神に代え衆生を救う)により同地域にある名居神社のご神体にされていたとあり、今も所願成就を祈り近在近郷の厚い信仰を集めている。 また、長谷寺との繋がりから豊山派であったが、昭和27年に現在の高野山派に転じている。
光照山
普門院
高野山真言宗
神亀年間(724~29年)
十一面観世音菩薩
徳道上人
正徳二年(1712年)
誘教上人
「三重四国八十八ヶ所霊場」第45番札所 「伊賀四国八十八ヶ所霊場」第46番札所 「伊賀国準西国三十三ヶ所観音霊場 」第8番札所
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