東照社の創建は正保2年(1645)、羽黒山の中興の祖と云われた天宥法印が日光東照宮(栃木県日光市)の分霊を勧請したとされます。天宥法印は上野寛永寺(天台宗)の天海僧正に師事した事から、天海僧正が徳川家康の霊廟として尽力した日光東照宮を勧請したと思われます。当時の出羽三山の主流は真言宗でしたが、天宥は寛永寺の末寺となり出羽三山の全山を天台宗にする事を画策、しかし、手法に疑問を持った真言宗派の派閥と争いとなり寛文8年(1668)、幕府の裁定により新島(東京都新島村)に島流しになっています。その後、庄内藩主酒井家は徳川家の重臣だった事から歴代藩主が崇敬庇護し、社殿の造営や改修、時には藩主自ら多くの家臣を引き連れ参拝に訪れたそうです。
現在の羽黒山東照宮社殿は4代藩主酒井忠真が元禄3年(1690)に造営した古建築物で、拝殿は寄棟、銅板葺、平入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、板張弁柄塗、背後の本殿とは一体となる所謂「権現造」で、本社である日光東照宮の形式を模した造りとし、木口を金色にするなど格式の高さを感じます。明治初頭に発令された神仏分離令後も神道的要素が強い事から残されたようで現在は出羽三山神社の摂社となっています。出羽三山神社に残る数少ない古建築物として大変貴重な存在で平成17年(2005)に鶴岡市指定有形文化財に指定されています。