れんぷくじ
千葉県山武郡芝山町飯櫃8
芝山町飯櫃にある真言宗智山派の寺院。 行基菩薩開創と伝わる古刹である。 奈良時代、聖武天皇の御代、天平3年に行基菩薩が東国に巡錫の際、熊野権現の御啓示により阿弥陀如来を敬刻開眼して当寺に安置して..
芝山町飯櫃にある真言宗智山派の寺院。 行基菩薩開創と伝わる古刹である。 奈良時代、聖武天皇の御代、天平3年に行基菩薩が東国に巡錫の際、熊野権現の御啓示により阿弥陀如来を敬刻開眼して当寺に安置して供養したのが開創である。 さらに弘法大師が大同年間、稲葉の地に来られた際に、熊野三社権現を勧請され梛の木を植えられ、大きな塚をお作りになって六万部の教典を読誦し開眼供養された。(合併した芝山町稲葉の西光院裏) 南北朝時代の天授(南朝)・永和(北朝)元年(1375年)、千葉六党の一人、東六郎胤頼の菩提寺として多古町染井にて名僧吽日上人が醍醐三宝院流を伝授し開山した。(正式に天授元年(南朝)・永和元年(北朝)を多古での蓮福寺の開山年としている。 第8世弁賀上人が周辺地域における真言宗寺院の本寺としての法流を紀州根来寺より受け継ぎ、伽藍復興の基盤を作る。 以後、周辺17ヶ村・25ヶ寺の本寺となる。 戦国時代、山武地域も例外なく群雄割拠の戦乱の装いにて、この地には松尾町山室から移って来られた、北条氏の系列の山室飛騨守が飯櫃の山に飯櫃城を築き、周辺諸国と対峙していた。弘治元年(1555年)に山室氏が多古の牛尾氏との合戦に勝利すると同時に当寺を多古町染井より飯櫃城内に移築。 天正18年(1590年)、北条方の山室氏は豊臣秀吉の配下の、後の信州高遠城主保科弾正に激戦の末敗れ飯櫃城は落城する。その際、蓮福寺も諸堂伽藍ことごとく焼失することとなる。 当時の住職、秀授法師は勇猛果敢な僧にして、大長刀を手に敵に向かい、伽藍が燃えさかる中、山室氏正室のお藤の方と、嫡男の梅千代丸(山室勝延)を隣村の稲葉の西光院に逃がしたのであった。 梅千代丸勝延は西光院に身を隠し、天正19年(1591年)、山室一族の菩提を弔うために35歳の時に出家し法名を照圓とした。 慶長3年(1598年)、先般の秀授法師は焼失した法流を茨城県八郷町小幡の報恩寺(後に宝薗寺と改名)より醍醐三宝院流を再伝し、城の弓練習場に照圓法師(中興8世)の為に寺を再興し、中興7世開山と呼ばれるようになる。 明暦3年(1657年)、木食円賀上人によって現在地に伽藍が整備された。 明治以降、廃仏毀釈等で衰退をたどったが、大正時代に先々代の保田弘心が末寺菱田薬王寺住職より中興第23世として本寺に晋山して、廃退した伽藍の復興に心血を注いで勤め、その志を先代中興第24世保田親精が引継ぎ、本堂改修復興・庫裏建設・境内庭園整備等、着々と往時の寺の面目を整えた。 平成20年4月25日世寿80歳にて遷化し、同年5月19日その法燈を保田研精が引き継ぎ中興第25世として晋山した。 現在真言宗智山派に所属、現存十ヶ寺の本寺として、地域の中心寺院として新義真言の教宣拡大に日夜努力を重ねている。 (蓮福寺HPより)
芝山町飯櫃にある真言宗智山派の寺院。 行基菩薩開創と伝わる古刹である。 御詠歌「くにをわけ たからをつみて たつてらの すへのよまでも りやくのこせり」
稲葉山
阿弥陀院
真言宗
智山派
天平3年 (731年)
阿弥陀三尊(阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩)
吽日上人
行基菩薩
稲葉山阿弥陀院蓮福寺
大般若(成人の日)、施餓鬼会(8月17日)
有り