『続員弁雑誌』に「春日神社大字 西方字城屋敷にあり、文政年中(一八一八~三〇)に勧請す、里俗云、大泉・長宮旧四ケ村(旧東一色村・大泉村・北金井村・西方村なり)立会の宮なるに事故ありて、長宮分離して、此神を祭り西方村産土神とす。例祭九月一六日、拝殿あり鳥居あり美麗なり」とあり、『員弁郡郷土資料』に、村社式外社、春日神社、祭神天兒屋根命は元大字西方字城屋敷に鎮座し、創立年号不詳なるも、昔伊勢国桑名春日神社より分霊せし由にて、中古は社地茫々と草茂り終に廃絶せんとするの処、文政八年(一八二五)総社大泉村鎮座大谷神社を分離し四村氏神新定の際西方は本社を修理し奉りて氏神と崇む。却説桑名春日神社より分霊せし縁由を以て近年まで該社祭礼の節は楊桐(榊の異名)笹竹等を献し来れり、爾今俗に町奉行受領書等存せり。因に当社南北に渓谷あり、俗に鹿谷と云う、今を去る百年以前は、鹿群集し、日中本社地に出で夜は谷間に帰り、敢て田圃を妨害するなく其挙動実に賞するに足れりと。(中略)猶舊記宝物の類多かりしも明治九年(一五〇〇)暴動蜂起の際焼失し、皆烏有に属す。」とある。