みなみながいはちまんじんじゃ
埼玉県所沢市南永井406
鎮座地南永井は市の東部にある農業地帯である。寛永四年には上総国志井津村から甘藷の種芋を移した所で、「甘藷の碑」があり、当地草分け四代目吉田弥右衛門の功を讃えている。 村の草創は延宝年間に上州新田郡..
鎮座地南永井は市の東部にある農業地帯である。寛永四年には上総国志井津村から甘藷の種芋を移した所で、「甘藷の碑」があり、当地草分け四代目吉田弥右衛門の功を讃えている。 村の草創は延宝年間に上州新田郡下田中村の(吉田)市郎左衛門なる者が、この地に入り開墾したのが始まりで、当社は市朗左衛門が屋敷神として祀っていたものを、寛永年間に一村を成した折、社殿を再建し、鎮守としたと伝え、社記にも「延宝年間まで鎮守なかりし処上州新田郡下田中村八幡の配札を以て勧請し当村の鎮守とす」とある。 また、群馬県新田町においても『下田中村の考察』(斎藤清「新田町史談会」六七号所載)に吉田氏の先祖が三河国から移り住み、更に、元禄年間所沢に移り、この時に八幡社を分祀したことが伝えられていると記されている。 当社の祀職は、古くはこの吉田氏が携わっていたとされ、当社に隣接する吉田家は“堂脇”と呼ばれ、現在社殿裏(以前は現社務所の位置)にある薬師堂の管理も行っていた。 「埼玉の神社」より
南永井八幡神社は、延宝年間(1673-1681)に当地を開発した上州新田郡下田中村の(吉田)市郎左衛門が屋敷神として創祀、一村を形成した折、新田郡下田中村八幡の分霊を勧請し南永井村の鎮守としたといいます。
素盞鳴命
延宝年間