いなじんじゃ
静岡県駿東郡小山町須走71-1
伊奈神社の由来 宝永4年11月23日早朝、富士山東口側中腹より大音響とともに噴火し、その灰、砂等は御殿場市、小山町全域はもちろん神奈川県、東京都の一部におよび、白昼にして暗夜の如く、特に須走地区は..
伊奈神社の由来 宝永4年11月23日早朝、富士山東口側中腹より大音響とともに噴火し、その灰、砂等は御殿場市、小山町全域はもちろん神奈川県、東京都の一部におよび、白昼にして暗夜の如く、特に須走地区は約三米の降砂に埋没し、噴火は十二月八日まで続いた。
被災地住民(駿東郡五十九ヶ村)は大打撃を受けた。家屋、田畑、山林を失った住民は、この窮状を打開するため、ときの幕府に陳情したが、あまりの大被害に幕府から見放され、食物もなく餓死寸前となり、ついには離散するものもあった。
しかし、被災民代表は死を覚悟で再三幕府に嘆願し、ようやく聞き入れられ、ときの関東郡代、伊奈半左衛門忠順を被災対策の指揮に当たらせたのである。
早速、被災地に着任した伊奈氏は疲労困憊した住民を励まし、さっそく復旧工事の大計画を立て日夜寝食も忘れ身を粉にして至難な焼砂の排除作業に着手したが工事は難行し、その苦難には言い知れぬものがあった。
更に復旧工事を進行させると共に被災民への食物を苦慮した伊奈氏は厳しい幕府の掟を破り、静岡市紺屋町にあった幕府貯蔵米を餓死寸前の被災民に施した。幕府御米蔵破り事件は即、江戸表に伝わり、御公儀役人取調の後、伊奈氏は、お役ご免となり、江戸表に送られ罰せられることとなった。
恩恵を受けた住民は伊奈氏の特赦を願ったが当時の幕府権力の下にどうすることもできず哀別をするに過ぎなかった。
後、慶応三年、その威徳を偲び有志数名が発起人となり小祠を建て、明治十一年吉久保水神社と須走上眞地に石祠を造営した。
明治四十年に須走字西沢(玉子ヶ池)に須走山入会組合が神社を建立し、伊奈神社と称し更に昭和三十二年十月七日に現在地の小山町須走字下原に移され、昭和昭和三十四年六月二日神社本庁、昭和三十四年十一月十六日静岡県より宗教法人、伊奈神社として認証された。 毎年春四月二十九日と秋十一月三日に大祭が挙行され、今日に至っても伊奈半左衛門忠順の頌徳が偲ばれている。
伊奈半左衛門を顕彰するため創建された神社 宝永の富士山大噴火で壊滅の危機に瀕した須走を復興させた、幕府の代官伊那半左衛門を神とお祀りしている神社です
伊奈半左衛門忠順
春と秋には例大祭が行われています
あり