金谷城は鋸山から北に伸びる丘陵に築かれました。眼前には浦賀水道が広がり、さらには上総国と安房国の 境に当たる要衝の地です。東京湾を挟んで、三浦半島を指呼の距離に望むことができ、金谷城は諸勢力の水軍拠点の海城として使用されていたと推察されます。築城主や築城年代は不明ですが、天文年間(1532年~1555年)初頭の段階では、里見実発の居城であったと考えられています。史料上の初見は、天文22年(1553年)の文書で、それによると里見氏の庇護を受けていた妙本寺(鋸南町)の住持日我が戦乱から逃れるために、金谷城に経典などを運び込んで避難するも戦火で焼失したといいます。里見氏の庇護する妙本寺の住持が金谷城に避難していることから、金谷城が当時、里見方の城だったことがわかります。その後、金谷城は内房正木氏の管理下に隧かれたと考えられます。正木氏は小田原北条氏に属していた時期もあり、その際は金谷城も北条方の城となりました。詳細は不明ですが、正木氏が再度里見氏に属すようになると、金谷城は里見方の城として機能したと思われます。佐貫城、造海城、勝山城が里見氏の拠点として整備されていくと、金谷城は造海城の支城として連携し存続していったと推測できます。