きんかんまるいなりしゃ
愛知県豊橋市関屋町2
永正2年(1505)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ、 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)という。社伝には「金柑丸稲荷社は古白今橋城を築くの日勧請する所にして云..
永正2年(1505)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ、 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)という。社伝には「金柑丸稲荷社は古白今橋城を築くの日勧請する所にして云々」「御城内鎮守稲荷大明神御社之事 御当城内鎮守にて御丸丑寅に御鎮座鬼門之守護之神社」とあり、正徳4年(1714)吉田城主松平信高(信祝)は社殿を修補し、此時正一位の神階を賜るとある。以後社殿の修補は吉田城主松平資訓(すけのり)、松平信復(のぶなお)、松平信明(のぶあきら)、松平信古によって四回なされ明治を迎える。 明治11年大河内信古は吉田城内五ヶ所(二之丸 地方役所 三之丸 倉廩役所 藩校時習館)の稲荷社を金柑丸に合祀し、吉田神社境内に移した。明治39年には日露戦役記念として社殿が造立され、明治42年には城守護(しろもりご)稲荷社が合祀された。 城守護稲荷社は正徳3年松平信高が城内三之丸に勧請したとされ、明治4年社殿は川毛町佐野文右衛門邸内に移され、以後は旧藩士によって維持されてきた。数年を経て、それも信徒の減少により困難となったことから、信徒惣代和田八千穂などより吉田神社末社として移転をしたいとの願いを受けて合祀された。 歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から出世 開運 の稲荷神として、 又、旧城内御丸鬼門守護の神社であることから方除けの神として広く信仰されております。
無料
あり