あしたかみょうじんももざわじんじゃちゅうぐう
静岡県沼津市宮本
御由緒・沿革 愛鷹明神桃澤神社由緒
愛鷹明神として崇敬されており、愛鷹山頂(海抜一、一八八m)に奥宮(本社)、一合目宮本字元野(大坂)に中宮、青野に下宮の三社が愛鷹明神桃澤神社であります。 ..
愛鷹明神として崇敬されており、愛鷹山頂(海抜一、一八八m)に奥宮(本社)、一合目宮本字元野(大坂)に中宮、青野に下宮の三社が愛鷹明神桃澤神社であります。 御祭神は三社とも次の三柱の神様をお祀りしております。 瓊瓊杵命(ににぎのみこと) 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 建御名方神(たけみなかたのかみ) 創建は愛鷹山縁起によれば、第七代孝霊天皇元年(紀元前二九〇年)、又一説には奈良時代、元正天皇霊亀三年(西暦七一七年)とも伝えられており、いずれにしても古い神社であります。 平安時代、後鳥羽天皇建久五年(西暦一、一九四年)源頼朝公が富士の巻狩りに際し、愛鷹明神が馬を愛でられるところから 神馬として駿馬(青色)九十九頭を奉献され此れが愛鷹山牧場の濫觴であると言われております。 戦国時代、正親町天皇、永禄・元亀・天正の頃、今川・武田両氏相次いで神馬を保護し愛鷹山一帯の芝地を神領とされた。 天下統一後の徳川家康も又今川・武田両氏に倣って神馬を保護されております。 江戸時代、中御門天皇享保七年(西暦一、七二二年)津田外記、愛鷹山中に放牧されている神馬を江戸幕府の経営にしようと 企てたが、愛鷹神主(奥津丹後)及び地元住民の反対に合い、漸く、光格天皇寛政八年(西暦一、七九六年)岩本石見守正倫 の検分により幕府直轄の牧場として経営、毎年六十~一〇〇頭の馬を駿東、富士、伊豆及び相模(神奈川県)の各地に払い 下げ、毎年三頭を祭祀の料として愛鷹明神に献納した。江戸時代には、社領として除地高九石九斗二升、田畑六反七畝を 所有していたが明治維新、上地となった。
明治元年、明治天皇御東征の節、橋本少将、柳原侍従が勅使として当社に登拝され幣帛料を奉納され、同明治八年旧社格 郷社に列せられた。 境内地は奥宮(本社)七五〇坪、中宮一、〇五二坪、下宮二五〇坪である。例祭日は奥宮二月八日、中宮四月八日、下宮 九月八日、頂上奥宮と下宮とは凡そ三里(12km)である。
愛鷹明神として崇敬されており、愛鷹山頂(海抜一、一八八m)に奥宮(本社)、一合目宮本字元野(大坂)に中宮、青野に下宮の三社が愛鷹明神桃澤神社であります。
瓊瓊杵命(ににぎのみこと) 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 建御名方神(たけみなかたのかみ)
愛鷹山縁起によれば、第七代孝霊天皇元年(紀元前二九〇年)、又一説には奈良時代、元正天皇霊亀三年(西暦七一七 年)
愛鷹明神