ようせんじ
群馬県桐生市東2-6-40
戦国時代。由良氏が桐生氏を滅ぼし、桐生城に入城したのち、由良氏重鎮であった金谷因幡守はその領地に庵室「水竹庵」を開基。これが養泉寺の基となったと伝えられている。由良氏が牛久へ国替えとなった後は、臨済..
戦国時代。由良氏が桐生氏を滅ぼし、桐生城に入城したのち、由良氏重鎮であった金谷因幡守はその領地に庵室「水竹庵」を開基。これが養泉寺の基となったと伝えられている。由良氏が牛久へ国替えとなった後は、臨済宗寺院であった東勝寺の庵室として存続したものと思われる。水竹庵が「青龍山養泉寺」とあらたまったのは元禄の頃、当時、この地を領地とした旗本、竹本土佐守が、その父、竹本養意を開基とし、鳳仙寺11世曲外嶺松大和尚を開山和尚に請して再興したことによる。以降、曹洞宗に属する。竹本養意は金山家館林家両家の医師であったが、寛文の頃、この地に移住したとされる。戒名、寂照院殿来室養意居士。その妻、瑞泉院殿縁誉心光大姉とともに養泉寺開基となっているが、養泉寺の寺号はこの2人の戒名にちなんでいることがわかる。 山門向かって左に「豊川稲荷」が祀られている。江戸時代には商売繁盛、家内安全を祈願する人々でたいへん賑わったと伝えられている。現在は毎年1月3日に大般若祈祷会「豊川稲荷大祭」を行っている。
青龍山
曹洞宗
元禄年間(1688年頃)
釈迦如来
曲外嶺松大和尚
竹本養意(竹本土佐守・父)
曹洞宗 青竜山 養泉寺
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